27 Feb縁と、運命と。

今日は2年ぶりの大阪場所、番付発表。感慨深いですな。

写真は、某部屋の力士からもらった、部屋のハワイ旅行のお土産。

少ないお小遣いのなか、気を遣ってくれて本当にウレシイ。

仕事を通じて知り合い、こうして関わって行くのも「縁」「運命」なのだな、

としみじみ思う。

相撲についての原稿を書いていたら、

今日、ひさしぶりに懐かしい人から電話があった。

フリーのライターになりたての、 あの頃。

相撲取材以外にもアンテナ張って、やる気に満ち溢れていたんだな、

と、懐かしく思い出す・・・・・・・

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あるニュース番組の短いコーナーで、広島の小学生ドッジボールチームの「おばちゃん監督」が紹介されていた。
(小学生のドッジ大会が大塚製薬スポンサー・文部省推薦で、盛んだったのだ)

このおばちゃん監督が、当時の私の琴線に触れたんだな。
さっそくテレビ局に電話して、連絡先を聞きだし、
無謀にも広島まで、彼女に会いに飛んでったのである。

もちろん、どこの媒体に書くなどと、なんら決まってないし、
取材費は、ぜ~んぶ自腹(笑)。「とりあえず来ちゃいましたっ!」状態。
とてもステキなパワフルなおばちゃんで、いっぺんで大ファンになった。
小学生の男の子たちもみ~んな可愛くてね。
確か、2回行ったな。ひとりで。

宮島が近いから、旅行気分で宮島で1日じゅう貝殻を拾ったり、
競艇場で遊んだりもしつつ(笑)。
チームの子のお母さんたちと飲んで、カラオケしたりも(おいおい)。

で。

東京に帰って、とにかく「営業」しまくった。
すごい熱意だったと今、思う。
結果、『Number』で短いコラム記事と、
『婦人公論』でおばちゃん監督のインタビュー記事を書かせてもらえたのだった。

「お。日本初のドッジボールライターだな」なんて笑われたりもして。

・・・元は取ったのか(笑)。

おばちゃん監督は、もちろん、一介の主婦の「素人さん」だし、
活字となって残るこの掲載記事を、本当に喜んでくれていた。
その後も東京で大会があるたびに応援に行ったり、
上京したおばちゃん監督ご夫婦とお食事をしたり。

ここ数年は、もちろんドッジボール大会もなくなり、
おばちゃん監督もとっくに卒業され、ご無沙汰だったけど。

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今日、久しぶりに、そのおばちゃん監督から電話があった。
ガンで余命がカウントダウン、だという。

不思議に、私はこういう場合、涙が出ない。
励ましも慰めもしない。
自分でも「冷たいんじゃないか」と思うくらい、
「死」に対して、淡々としてしまっているのである。

「運命だから、もうしょうがないよね。でも、ギリギリまで頑張らなきゃいけないのも辛いね・・・。でもさ、毎日笑っててガン治っちゃった、ってのも実際はあるしねぇ。でもね、でもね、やっぱり運命には抵抗できない。出来る限りは抵抗して、その後はちゃんとまっとうすればいいだけで。もうたくさん泣いた? まだまだ泣きたかったらいつでも電話してね。57歳かぁ・・・。うちの母なんて44歳で死んじゃったのよ」(略)

なんて慰めにも励ましにもならんけど、徒然にあれこれ話す。 

普段の花子って喜怒哀楽が激しく、
感情過多で泣いたり喚いたりも多いけど。

なんだろな・・・。唯一「死」に対しては「受け入れ体勢」があるのだ。

いや、「耐性」か。

若い頃から身近な人の死を何度か見ていて(もちろん無念な思いはあるんだけど)

うまく言えないが、

「ああ。死って怖いものではないのかもしれない」

と思ってる自分がいる。
自分がその身になったら、わからんけど・・・。
あがくのかな?

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電話を切ったあと、メールが来た。

題名は「ビックリさせてごめんなさい」だった。

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病院の窓から、空を見上げいたら、佐藤さんの事懐かしく思い出しました。本当は昨年から気にしていたけどしゃべる勇気なくて……
震災の日に分かり、手術できるか検査入院し、4月に12時間かけて摘出しましたが、スキル性すいかんがんでリンパ節三ヶ所転移してました。毎日の放射線治療と抗がん剤七ヶ月しました。副作用と戦い、結局残りの二回やめました。先生からまずは体を元気にしょうと励まされました。昔60キロ近くあった体重も46キロに減り、それでも生きていきたいと頑張りました。思いもしないことはいく度もありましたが、辛く悔しかった。けどこの10カ月でたくさん得たものがあり、自分なりに成長しました。こうしてメールできるようになりました。いまでも私の知らないものが、体に忍び込んでいる怖さはありますが、私は最後まで自分の足で歩きたいと思います。感謝の心を言葉にして、前に進みます。へこたれたら、背中押してください。

私は祥子さんに出会えて、本当に本当に感謝で一杯です。有難う!有難うございます。

追伸 祥子さんの記事大切に持っていきます。まだ早いけどね〓〓〓〓〓。

 

 

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   最後の「追伸」の一文で、泣けた。   この仕事、しててよかったのだろう。

     大阪場所から広島に飛ぼう、私もあの頃を思い出して。

        今、昔の記事を探して読んでみたら・・・

       取材時の「おばちゃん監督」、当時44歳だった。

           今の花子と、奇しくも同じ年。