14 Novたまには・・・超個人的日記。

昨日は、私の誕生日だった。
いつも実家に帰ると母の墓参りをするのだが。

誕生日前日も、てくてく行ってきた。
なんとなく目に付いたカーネーション買ってしまったわ。

母が死んで25年。
「ああ、母の日にカーネーションを買わなくなって25年なのか」
とも、なんとなく思い浮かんだ。

墓地には赤とんぼがたくさん飛び回っている。
トンボの寿命はどれくらいなのだろうか。

墓苑の前には、ごらんのとおりののどかな田園風景。
その向こうに中学校がある。

ブラスバンド部の中学生が練習してるのだろうな。
「アメージング・グレイス」のモノ哀しいトランペットの、
つっかえつっかえの下手くそな(失敬?)音色が聴こえてくる。

テニスの球を打ち返す音や、時に嬌声も響いて。

「一番の心残りだった妹が、この中学校で歌ったり走ったりしてるのを、
母はきっとここで見ていたんだろうな。
しかし・・・まったく父も、いい場所に墓を買ったものよ」

と思う。
母はクリスチャンだったので、先祖とは別の墓を買ったのだった。
( ちなみに「アメージング・グレイス」は讃美歌)

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25年前と違って、どんどんこの墓苑は大きくなり、
今も造成工事中だ。
当たり前のことなれど、墓地を見渡すといつも、
「これだけのヒトが死んでいるわけだ。この数だけ哀しいヒトがいるのだ」
と思わされる。

今日、70歳がらみの男性が、私の後をずっと歩いて来ていた。
行く先は、同じ墓苑だった。

手ぶらで墓参りか・・・。
「奥さんに先立たれたのかな。きっと、わざわざ線香や花など持たず、
フラッと思いついてお墓にお参りに来るんだろうな」
と想像する。

もうひとり、おじいさんが手ぶらで。
墓を磨いていると、
「こんにちわ。お疲れ様」
と声を掛けられた。
なんだか「同志」のような気がするから、不思議だ。

ふたりの男性に共通するのは、その墓に向う「寂しそう」な足取り。
墓を参るということは、「死」を再確認することでもある。

「やっぱり女のほうが長生きするようにできてるのは、
神様の優しさでもあるのだろう。
連れ合いに先立たれちゃった男の侘しさはいかほどであろう」

と思う。我が父を含めて。

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お誕生日は、なんだかうれしくもない年になった。
ここ数年は、「産んでくれた母親に感謝する日なのだなぁ」
と思うようになる。

  私も、母が死んだ年齢になる。

「え? 今、この年で死んじゃうのか。
私、夫も子どももいなくてこの世に思い残すことはない、
なんて嘯くこともあるけれど、やっぱり違うわ。もう少し生きたいや」

と思った。
実は私は「今の不健康な生活だと年金もらえる年まで生きられない」と脅されて(?)いる。

  母が、懸命に私の背中を後ろから支えて倒れないよう、
  命を繋いでくれている・・・なんとなくそう感じるのである。
  ここ最近、特に。

    お母さん。44回目の誕生日、ありがとう。
     4人もきょうだい作ってくれてありがとう。

     4分の1=2番目の不肖の娘より。

    (最近、とみに殊勝なあたくし。年取ったショウコですね)